Je ne suis pas Charlie

フランス語のタイトルである。
このところメディアで一番有名なフレーズは、フランス語の、”Je suis Charlie”、「私はCharlie」なのだが、これに違和感を持つのは私だけでないと思う。

どうしてか。
第一に、Charlie Hebdoの風刺画は下品だと思う。
“Je suis Charlie”というプラカードを掲げる人たちは、この雑誌の絵を本当に好いて、面白いと思って、本心から”Je suis Charlie”と訴えているのだろうか。

第二に、表現・言論の自由という錦の旗のもとに、誰もが盲目的に馳せ参じているのではないか。
言論の自由の最大の奉仕者である新聞社、出版社、放送局などが旗を振っているので、その大衆動員力は計り知れない大きさである。
その波に乗った”Je suis Charlie”というメッセージはいかにも安っぽく見える。

第三に、キリスト教的価値観が目立ちすぎるようにみえることだ。
この雑誌のような無神論者と言うか神冒涜者や、キリスト教者は堂々と参加できるのに、イスラム教者は「イスラムは平和を愛す」言い訳を常に表明しないと参加できないような気の毒な立場だ。

そう感じていたところこの記事を見て、ああよかったと思った次第だ。

France divided despite uplifting rallies

http://www.bbc.com/news/world-europe-30769192

フェイスブックの”Je ne suis pas Charlie”「私はCharlieではない」ページは2万1千いいねを集めた。
このページに親指を立てたイスラムのフランス人は、Kouachi兄弟やCoulibalyとは何の関係もない平和主義者である。
でも預言者ムハンマドを侮辱したこの雑誌からは距離を置く。

欧州のダブルスタンダードには耐えられない。
ガザやシリアで何千人もの命が失われているのに、なぜパリの17人の死がこれだけ騒がれるのか。
Charlie Hebdoが何のお咎めもないのに、ユダヤを茶化したDieudonne M’bala M’balaは送検されるのか。

移民の多い周辺地区の学校では、Charlie Hebdo犠牲者追悼の黙祷が中断されたり無視されたりした。

ツイッターで”Je suis Kouachi”タグが現れたというのだが、これはやり過ぎだろう。

フランスは一つにまとまりなどしない。
でもこれで良いではないか。

南米人二人の意見に賛同する。

あるブラジル人漫画家は、「Charlie Hebdoのために働く気はない。裸のマオメ(ムハンマド)など描きたくない。」と言った。
同感だ。
裸の預言者ムハンマドの絵など面白くもない。
糞面白くないものを無理やり見させられるのは苦痛である。
イスラムの人は預言者が侮辱されたと感じるだろう。
表現の自由は尊重するが、この雑誌の表現には見てくれる人への思いやりが全く感じられない。

「悪趣味が相手であろうと暴力に訴えるのは間違いだ。」と言ったのはアルゼンチン人のフランシスコ法王である。
マリア様が大股を開いている絵など、カトリックもしばしばこの雑誌の風刺の対象になっている。
ポルトガル語報道でmau gostoと出ていたから、カトリック総本山がこの雑誌を好いていないことは間違いない。
そのうえでイスラムの指導者へ意見する。
「イスラム指導者は急進暴力主義者を糾弾すべきである。」

さて、3百万部発行されるというCharlie Hebdoの最新号表紙は、預言者ムハンマドの再登場だ。
ムハンマドが”Je suis Charlie”と書かれた例のプラカードを掲げている。
その上に、「誰もが許される」と書いてある。

この雑誌の上から目線体質を治す薬はない。
それでも大衆は”Je suis Charlie”を再び掲げるのだろうか。

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